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【インテリア・雑貨】 無相創 西荻窪


【インテリア・雑貨】 無相創 西荻窪_a0054416_21525613.jpg
【インテリア・雑貨】 無相創 西荻窪
杉並区西荻北3-42-5
tel :03-3301-2357

西荻窪駅北口から真北方向に15分ほど歩きます。店名とは違い、丁寧な接客です。
アンティーク小物、アンティーク調のペンダントライトを揃えています。
ジャンクな雰囲気の店です。

オーナーのこの略歴が良いですね。

1964 3月 福岡県の北の港町 門司港に生まれる
1983 門司港から家出して上京
1987 代々木上原の井の頭通りで道具屋開業 古いものを使って変なものをつくり始める
1989 店に花を飾るようになり、花屋を始める/世田谷、中野、池袋と小さな店を自転車操業
1999 3月 パリに自分のつくったものを見せに行き、150軒のギャラリーを回る/3軒程に興味を持ってもらい、そのうち1軒はすぐに展示
1999 12月 11年間経営した花屋を閉店し、自分なりにものをつくる道に進むことを決意
2000 2~3月 ロンドン、パリ、ミラノ、ベニスにて売り込み、展示の旅
2000 5月 上野雅代と結婚
2000 6月 原宿表参道でつくったものを売る/2年程続ける
2000 三越銀座店で企画展
2001 玉川高島屋 2人展/以降、色々なところで個展をさせていただく
2001 10月 ニューヨークチェルシーホテル展示
2002 3月 無相創 開店
2004 10月 かみさんと別々にものをつくってきたが、2人でつくるのも面白いと思い夫婦ユニット「いっぽ」結成
2004 12月 いっぽ 「イス展」
2005 いっぽの企画展を3月、6月、9月、12月 開催
2006 11月下旬~12月上旬 いっぽ展 無相創にて開催予定
# by ministopde | 2006-06-28 21:53 | インテリアショップ(中央線)

【欧州雑貨】 ミーシカ  西荻窪


【欧州雑貨】 ミーシカ  西荻窪_a0054416_21503272.jpg
【欧州雑貨】 ミーシカ  西荻窪
杉並区西荻北4-3-4 2F-204
tel : 050-3083-8595

西荻窪駅北口から西方向に10分ほど歩いた細い路地沿いの2階にあります。
ディック・ブルーナーのミッフィーグッズやムーミン陶器、ファイヤーキングなどが揃います。
# by ministopde | 2006-06-28 21:50 | インテリアショップ(中央線)

【インテリア・雑貨】 MOOD  西荻窪

【インテリア・雑貨】 MOOD  西荻窪_a0054416_21473828.jpg

【インテリア・雑貨】 MOOD  西荻窪
杉並区西荻北4-4-1
tel : 03-3394-6379

西荻窪駅北口から西方向に10分ほど歩きます。
コンパクトな店内ですが北欧陶器、ファイヤーキング、などキッチン周りの商品で溢れています。
リサ・ラーソンの作品などレアでちょっと値の張るものもあります。
# by ministopde | 2006-06-28 21:47 | インテリアショップ(中央線)

【一号店シリーズ】 マイカル 大阪 千林

【一号店シリーズ】 マイカル 大阪 千林 _a0054416_10551282.jpg

【一号店シリーズ】 マイカル 大阪 千林
大阪府大阪市旭区千林2-51-2

千林には「主婦の店・ダイエー薬局跡」だけでなく「マイカル(旧・ニチイ)」発祥の地があります。
画像左に見える千林公園の前で建設中のマンション「ブランビオ千林」がその場所です。マンションのHPで場所がビジュアルにわかります。
店舗は消えましたが、住民は増えるので地元商店街にとっては歓迎すべき状況なのかもしれませんね。

マイカルの母体であるニチイは天満橋の衣料スーパー「セルフハトヤ」と千林の「赤のれん(岡本商店)」、ヤマト小林商店、エルピスの4社が合併して設立されたので厳密には「発祥地の一つ」ということになります。
ニチイ(日本は一つの意味)は1963年に設立され、社長には「セルフハトヤ」の西端行雄が就任しています。

千林の「赤のれん(岡本商店)」は岡本常男氏が創業した店で、シベリア抑留を経て1952年にオープン。ひっくり返した段ボール箱に肌着や靴下を並べて売ったそうです。
千林では合併によりニチイとなってからも衣料品スーパーとして2002年2月まで営業を続けていました(最後は千林サティの名称)。

ニチイはその後、

1974年:大証第2部上場
1976年:東京、大阪証1部上場
1982年:ビブレ1号店福岡市に開業
1984年:サティ1号店を奈良市に開業
1989年:横浜市に「マイカル本牧」開業。
1990年:総合スーパー(GMS)のニチイをサティ、ビブレへと転換開始
1996年:社名をマイカルに変更
1999年:「マイカル小樽」オープン。
2001年:子会社のスポーツクラブのピープル(現・コナミスポーツ)をコナミへ、クレジットのマイカルカード(現・ポケットカード)を三洋信販へ売却。
     9月14日に民事再生法を申請。のちイオン株式会社をスポンサーとすることを決定し、会社更生法を申請。
2003年11月29日:イオン株式会社の完全子会社化。
・・・・・という激変を遂げています。

マイカルは2001年9月14日にメインバンクであった第一勧業銀行(当時)から金融支援の打ち切りを宣告され、経営破綻が確実となりました。そこで第一勧業銀行と当時の四方修社長は、同じく第一勧業銀行をメインバンクとするイオンを支援先として会社更生法による再建を画策しましたが取締役が反発。経営陣が残り比較的早く再建が果たせる民事再生法による再建を主張し、四方社長と第一勧業銀行出身の取締役を取締役会で解任し、山下幸三が社長に就任し、同日民事再生法の適用を申請したというすごい展開でした。
しかしメインバンクの支援を受けられないままの再建は苦しく、また支援企業選びも難航したこともあり。さらに一転しイオンが会社更生法下での支援を表明。民事再生手続きの中止と会社更生法の申請がなされました。

その後・・・
・マイカル北海道(現:ポスフール)はマイカルから独立して店名を社名同様「ポスフール」に
・ビブレは食品を扱う店舗のほとんどをサティへと転換。また、子会社のダックビブレが運営していた東北地方の店舗はマイカルから離れ、さくら野百貨店として再出発。
・ポロロッカは全店舗がマルエツへと売却。
など、実質解体作業に入っています。

破綻の原因には様々な要素がありますが、その一つは「資金繰り」です。
小売業の銀行等による借入金の限度となる目安は、通常は「月商の2ヶ月から3ヶ月くらい」といわれますが、「マイカル」の場合には、年商1兆7千200億円に対して、借入金も1兆1千500億円抱えていて、ほぼ年商(月商12ヶ月分)に近いものを持っていたこと。 つまり、ほとんど借入金の返済は不可能であったことが最大要因だったと思います。
# by ministopde | 2006-06-03 10:59 | 一号店(スーパー系)

【一号店シリーズ】 ダイエー 大阪 千林


【一号店シリーズ】 ダイエー 大阪 千林 _a0054416_5335665.jpg
【一号店シリーズ】 ダイエー 千林
京阪電車の千林駅を降りてすぐ向かいのオーエス薬局の場所が「主婦の店・ダイエー薬局」跡です。
1957年(昭和32)、故・中内功(正確には工へんに刀)氏が、「主婦の店ダイエー」の1号店をスタートした記念すべき地です。
ここ千林商店街は千林駅前から、ほぼ直線に660メートルのアーケードが続き、約230店が幅6メートルの歩道を挟んでひしめきあう活気あふれる商店街です。この一帯は戦災を免れたため、焼け出された大阪中心部の商売人らが集まり、戦後急速に発展。昭和30年代には、「日本一安い商店街」とまで言われ、京阪沿線で近隣の守口や寝屋川、遠くは京都からも定期券を首に提げて買い物客が訪れたそうです。 この地でダイエーが生まれたのもそうした素地があったわけです。

さて、創業者中内氏は1922年大阪生まれ。この千林のダイエー薬局を経て神戸・三宮からスーパーをチェーン展開しています。当初は薬局で、後に食料品へと進出していったわけです。当時は定価販売が当たり前だった小売業界に安売りを定着させ喝采を浴びました(1964年に松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって勃発した『ダイエー・松下戦争』は有名で、1994年の完全和解まで実に30年間を要しています)。1972年には売上高で三越を抜き業界首位になっています。

その後も中内氏は80~90年代にかけて、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス・ウェンコジャパン、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開。また、イチケンやリクルート、忠実屋、ユニードなど(その後1994年に忠実屋・ユニード・ダイナハを合併)を買収。さらに南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入するなど、グループ約190社、売上高5兆円の巨大グループを築き、流通科学大学も創設。流通業界初の経団連(当時)副会長にも就きました。

しかし、息子に跡を継がせたいあまりに他社からヘッドハントした部下を辞職に追い込み、周囲を自分に近いイエスマンで固めるなど、ワンマン体制の弊害が次第に露呈。さらに1990年代に入ると地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾きはじめました。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。さらに展開していたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、消費者の意識が「安く」から「品質」に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時代に取り残されていきました。

1995年1月17日の阪神・淡路大震災の際には、中内氏は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。フェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、物価の安定に貢献しましたが、この地震により、関西発祥のダイエーの被害は甚大で、神戸にあったダイエー7店舗のうち、4店舗が全壊。凋落が決定的となりました。
既にジャスコを経営するイオン、ローソンのライバルであるセブン-イレブンの親会社イトーヨーカ堂などが業界をリードするようになっており、「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何も無い」と囁かれ、中内氏自身も晩年、「消費者が見えんようになった」と嘆くこともあったそうです。
氏は経営が悪化の責任をかぶり99年に約40年間務めた社長を退任、2004年12月には六麓荘町(兵庫県芦屋市)と田園調布(東京)にあった豪邸や所持する全株式を売却、名実ともにダイエーから決別しています。
翌年の2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後、神戸市内の病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、療養中の神戸市立中央市民病院にて同年9月19日に亡くなられています。享年は83才。葬儀は、流通科学大学の学園葬で行われましたが、ダイエーは、社葬を行わず、中内氏に私淑していたライフコーポレーション社長清水信義の奔走で日本チェーンストア協会でお別れの会を執り行っています。過去の栄光に比べ、寂しい最期だったわけです。

但し、日本のチェーンストアの成長を先導し続け、流通業に変革をもたらしたその功績は甚大で、また、震災時には迅速に物資を送り、震災地のグループ全店舗を営業したという男気も忘れてはならないでしょう。
1993年には流通小売業初の「勲一等瑞宝章」を受賞しています。

ダイエー1号店は1974年に閉店、それ以後も、トポス千林店がありましたがそこも2005年10月に閉店し、千林の地におけるダイエー色は事実上消えています(ローソンは何店舗かありますが・・・)。
# by ministopde | 2006-06-03 05:34 | 一号店(スーパー系)